お気に召すままに

 

幼少期の思い出はー。

 浮かぶのは、独りレジ打ちごっこをし、独り田んぼの水路で水遊びし、独りで朝ご飯を食べる。そんな映像ばかり。笑顔や思い出が浮かんだことなんて一度もない。

 

暗くて苦しくて重い。

 

 私の明らかな記憶は、父の亡き約3年後から始まる。当時母は20代前半であり、バツイチ子持ちの未亡人。文字にしただけで過酷さが伝わってくる。母と私は父と過ごしたアパートを離れ、母の実家の近くのアパートに引っ越した。母は当時その若さで5歳の子どもを育てねばならなず、仕事に追われていた。そのため私はほとんどを保育園と祖母の家で過ごした。

 父は亡くなったが、遺産など一銭も入らなかった。もともと祝福された結婚ではなかったため、母のことを毛嫌った父の親族が相続を破棄するよう迫った。詳しくは知らないが、母は壮絶ないじめに近いものを受けていたのだ。それでも遺産を求めるのであれば、形上孫である私の親権を手放すように言ってきたのである。簡単に言ってしまえば、嫁はいらぬが、孫なら迎え入れたいということだ。

 母は義実家と絶縁し、私と2人で暮らしていくことを選んだ。断腸の思いであったと思う。

 

 しかし、現実は甘くはなかった。仕事をするためには私を義実家に預けざるを得ないこともあった。母のことは毛嫌っていたが、孫である私は可愛がられていた。義実家では祖父、祖母、伯母、伯父に囲まれわいわいと食事をとり、一言食べたいと言えばアイスやケーキがたくさん出てきた。祖父は私に高価なおもちゃを買い与え、伯母はテーマパークにレジャーに様々な場所に私を連れ出した。温かくて、楽しくて、しあわせな記憶ばかりである。

 

 一方、母の迎えの時間となると気持ちは強張った。帰りの車内での母は、決まって不機嫌であったからだ。当時の母と同年代になりやっと理解し得ることができたが、私のために意地もプライドも捨て義実家に頭を下げた結果可愛がられる私に反し、あしらわれる自分と比べ、私に憎悪の感情を抱いていたに違いない。

 「またそんなものもらって」「そんなに楽しいならもう帰って来なくていい」。車内での返ってくる言葉は冷たかった。私はどんどん黙るようになった。母に聞かれたことを答えるだけの方が、母はいつもより優しく感じられた。

 家に着くなり、母の購入した缶チューハイや惣菜、日用品が入った袋をこそこそと部屋のすみであさり、独りで袋から出し入れし、レジ打ちの真似っこをするのが好きだった。「外で遊んできな」と言われるたびに、何したらいいのかも分からず、アパート下の田んぼの水路に足を入れて座っていた。

 よく母と母の姉に連れられ、夜のスナックに行っていた。母が笑顔になり、私のことをよく聞いて見てくれるのは必ず家の外だった。カラオケの大きな音と、お酒の匂い、声の大きなおばちゃん、おじちゃん。怖いことも多かったが、みんな可愛がってくれるから楽しかった。何より、母が笑顔になることが本当に嬉しかったが、それは、2人きりになってから注がれる母の冷たい表情への恐怖心から願った笑顔だった。

 父が亡くなったということを朧げに理解したのはその時だった。大人たちの会話の中で、私は眠くもないのに寝たふりをした。母の膝枕で、会話で揺れる体動を感じながら、「あんたも大変だよ」とおばちゃんは言い、母が泣いていたのを薄目で見あげていた。母の笑顔の記憶が少ない一方、泣き顔の記憶はそれが最後だ。

 

酔って帰った次の日は、母はあまり起きてこなかった。朝起きて隣に母がいなかった時、ついに置いてかれたと感じた。怖くて怖くて必死に探し、廊下で酔い潰れて寝ていたところを見つけることもあった。食器の洗い物は溜まっていたし、炊飯器のお米は硬く古かったけれど、朝ごはんを食べなくてはまた母を失望させてしまう。洗い物の中から1番汚れの少ない茶碗を取り出し、少しのご飯をよそい、ふりかけをかけて食べた。味なんてしなかったし、身体中の生気を吸い取られるようであった。

 その日は朝日のよく入る、薄寒い朝だった。あたたかい日差しを感じながら、猛烈に寂しさを感じた。孤独を知った朝だった。